五井野正 博士ファン倶楽部  浮世絵と印象派を通して学ぶ自然世界

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五井野正博士『ジャポニスムとは、日本主義である。』          昔語大磯之図 小むらさき 白井権八

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◆ 下記は『遊女と廓の図誌・小野武雄編者』より『小紫』について、『北里見聞録』と言う本を参考に書かれているものですが、長文となりますが、小紫と白井権八についての故事来歴の物語が断片的になりますがよくわかると思いますので掲載したいと思います。

  『遊女と廓の図誌』より

 小紫(濃紫)

『 三浦屋抱え小紫(濃紫)は三代続いた。二代目小紫は、知らぬとはいえ、盗賊平井権八と深く逢馴れた。権八が悪行露見して召し捕らえられ仕置きになり、ゆかりの者の手で目黒の里に葬られた。彼が一椎の土の主となった後も、小紫は、何気ない風情で、苦界の勤めを続けていた。そしてある豪福な男と親しみ、請け出して貰ったが、その身請けの夜に、秘かに宿を抜け出し、目黒に行き、権八の墓前で、自害して果てた。その趣旨を察した附近の人々が、あわれみ、権八の墓に並べて、比翼塚として葬ってやった。遊女と賊との間とはいえ、道理の誓の固さに多くの人々は感嘆した・・・(以下略す)(北里見聞録より)

 これについて同書の著者は言う。麻布鍬谷という書を見ると、平井権八は因州鳥取の城主松平相模守の御内、平井権左衛門の養子である。故あって、父の同輩須藤某を討って、立退き、江戸にのがれてきて、下谷御徒士町の幡随院長兵衛方に身を寄せていた。ある時から、ふと、三浦屋抱えの小紫の許へ通うようになり、深く馴染めたので、すっかり小紫の間夫になって浮名をうたわれた。

 ところで須藤某の二子助七と助八は、父の仇討ちを志ざし、江戸へ来て、商人に姿をかえて、つけ覗っていた。それを知った権八は、兄弟をだまして、おびき寄せ、返り討ちにしてしまった。これを知って、幡随院長兵衛は、大いに怒り、だまし討ちとは以ての外というわけで、権八を追い出してしまった。


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(上記は、白楽天の長恨歌の一節の詩で、死後、仙界に生まれ変わった楊貴妃が玄宗皇帝からの使いの道士に対して愛の証として返歌したものであり、この歌の中に比翼鳥の事が読み込まれており、この比翼鳥の逸話から、比翼塚の名称が生まれて来ている。)
 
 困った権八は、至る処で辻斬強盗をやり、多くの金銀を奪ったので、江戸にいられなくなり、偽って関所を越え、京・大坂を遍歴して、勢州桑名へ来た時、百姓娘をだまし、操を奪い、金銀をかすめ、その上、その娘を殺してしまった。それから江戸に舞い戻り、田端の円性寺の墓守浄心に頼み、剃髪し、左眼に劇薬たんばんをさして、片眼になって隠れ通そうとしたが、天命逃れがたく、召捕られて、遂に鈴ヶ森で磔刑に処せられた。権八は十六才で出国、享年二十三才に至るまで、僅か七年に、人を殺すこと、百八十五人にのぼった・・・(以下略す)

  
  小紫考証

 見聞録の著者戸張佳孝によると、「 権八処刑後、目黒行人坂の虚無僧寺の僧の哲宗が、たまたま、権八の知り合いだったので、ひそかに死骸を求めて、これを葬り、印の塚を建て、戒名を如空哲玄大徳とした。ところが、間もなく、年の頃二十一才位の美女が供一人を召連れて、この寺に来て、権八ゆかりの者と称し、石碑を建ててくれたことの礼を述べ、金子五両を寄進して、宜しくお弔い下されと願い、自らは、墓前で深く礼拝して後、偽って、住持・供の者を遠去け、比翼塚(丸に井桁・五三の桐)のついた小袖を打ち敷き、鋭い小刀で咽頭笛を掻っ切り、美事に相果てた。

 やがてその場に戻ってきた住僧がこれを見つけて、供を呼んで、女の住所を問うたところ、三浦屋お抱えの小紫と判明した。そこで三浦屋からも人々が駆けつけてきて、平井権八の遺骸と合葬し、石碑を建て、法名を良山妙空真女と号したという。そこで、比翼塚のあるとおぼしき地を尋ね歩いたが、確証は得られなかったので、彼女の貞節の操をいと尊くも、哀れに思い、しきりに涙を催しながら、せめて、しばしの手向けにもと、懐中より、手枕の香を取り出し、打火の煙にくゆらせ、傍の木に歌一首・・・・(以下略す) 』 

◆ さて以上が『遊女と廓の図誌』からの白井権八と三浦屋小紫の比翼塚の故事来歴を著したものですが、その中でどうして二人の埋葬された塚を『比翼塚』と述べられているのか、いったいこの『比翼塚』の名称がどのような意味を持っているのか、ネツト検索で調べていった処、あるブログにこの『比翼塚』の名称が実は、中国の玄宗皇帝と楊貴妃の物語を描いた中国の白楽天(西暦772生まれ)の『長恨歌』の歌の中に読まれている比翼鳥の故事来歴から来ている名称であるということがわかってきましたので、補足ということでこの『長恨歌』について述べたいと思います。

◆ 以下は長恨歌の詩の一番最後の部分です。因みに比翼鳥とは、中国の道教の世界を顕している『山海経』「海外南経」によれば、青赤色の身体で、2羽で翼がそろって飛ぶという鳥で、二羽そろわないと飛べない鳥なので、そのことが男女の仲の睦まじさをあらわす喩えにもなっているようです。

◆ でもどうして玄宗皇帝と楊貴妃の物語を描いた『長恨歌』が花魁などの浮世絵の世界と関係しているのかというと、実は花魁を別名、傾国とか傾城と呼ぶ故事来歴は、実はこの玄宗皇帝と楊貴妃の物語から始まっているからなのです。それは君子が絶世の美女の色香に迷って、政治を怠り、国を傾ける原因となるということで、楊貴妃も玄宗皇帝の側近に殺されてしまうわけです。それでこの逸話が、廓に流れて、花魁のマインドコントロールによって、金持ちの遊客が破滅して破産してゆくことで、傾国・傾城と呼ばれるようになったわけです。

◆ 長恨歌とは、その玄宗皇帝と楊貴妃の物語の詩なのですが、私が特に詩に関心を持ったのは、玄宗皇帝がどうしても楊貴妃に会いたい思いが抑えがたく、死後に仙界に転生輪廻をしている楊貴妃に側近の道士を派遣して、楊貴妃に戻ってきてほしいと懇願することが描かれています。つまり、仙界という世界観が描き込まれていて、そこへ道士を派遣するという物語が大変面白いのです。

◆ このような仙界や異界などの死後の世界は、中国の道教の世界では数多く述べられていますし、その世界観は同時に日本の遊郭の世界にも山水画や庭園の世界を通して桃源郷の思想として入っているということです。そしてそのような中国の道教世界が、平井権八と三浦屋小藤の『比翼塚』と言う名称まで流れて、それが現代の日本まで流されて残されているということなのです。



長恨歌(抜粋)      白楽天      
  春寒賜浴華清池
  温泉水滑洗凝脂  
     春まだ寒いころ華清池の温泉を賜った。
     温泉の水は滑らかに白い肌を洗う。
  侍兒扶起嬌無力
  始是新承恩澤時
     侍女が助け起こすとなよやかで力ない。
     こうして晴れて皇帝の寵愛を受けたのであった。

  在天願作比翼鳥、
  在地願爲連理枝  
     天にあっては願わくは比翼の鳥となり
     地にあっては願わくは連理の枝となろう。
  天長地久有時盡、
  此恨綿綿無絕期
     天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。
     しかし、この悲しみは綿々と続いて絶える時はないだろう。

               
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水と木の精霊の守り人

Author:水と木の精霊の守り人
 浮世絵の中に描かれている宗教・歴史・信仰・民俗学・古典などに深い関心があり、『精霊の守り人』のファンです。また、浮世絵の影響を受けたフランス印象派やジャポニスムに関心を持っています。
( Impressionnistesとは、正しい翻訳では、印象派と訳すのではなく、フランスの浮世絵師と訳すのが正しい翻訳であるそうです )
特に浮世絵の研究者でもあり、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士のファンの一人です。博士の講演の中で、ジャポニスムとは、日本趣味ではなく正しくは、~イズム(ism)とはその人の生き方・精神を顕わして日本趣味ではなく、日本主義と訳すのが正しい翻訳であるそうです。また内部被曝問題に関心があります。日本GAP・アダムスキーやオムネク・オネクに関心を持っています。

◆ このファンサイトの主旨
 
 このファンサイトは、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士の個人的・非公式非公認ファンサイトです。これまで博士の芸術論講座や講演会に筆者が参加して、個人的に主観的に思ったこと考えたことが書かれています。ですから客観的な公式・公認の情報ではありません。

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