五井野正 博士ファン倶楽部  浮世絵と印象派を通して学ぶ自然世界

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オムネク・オネク『隠されたナザレのイエスの真実』            チベットのヒミス寺院秘蔵のキリストの古文書

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◆ 以前、五井野正博士の芸術論講座に参加した時に、ナザレのイエスがアフガニスタンで小乗仏教を学んでいたと言う話があり大変驚きました。と言いますのは、ヴァン・ゴッホのことを調べてゆくと、どうしてもナザレのイエスの問題は避けて通れない問題であり、ゴッホ自身は、ナザレのイエスの問題の解決のために、ナザレのイエスと同じように『金星』から転生輪廻してきた人と言われているからです。

◆ また、ナザレのイエスは、ユダヤ教の律法社会を内側から変化させてゆくために、ユダヤ教の因果律に縛られた世界に、縁起という考え方を『愛』という表現方法に言葉を変えて、ユダヤ教の硬直した原因と結果の法則の世界に縁起の理法をユダヤ教の戒律の世界に入れることによって、ユダヤ教社会を変化させようとした人と言われています。

◆ このことは、以前の博士の講演の中では、ナザレのイエスは、釈迦仏が行ったことを、ユダヤ教律法社会の中で同じように実践しようとしたと話がありましたが、詳しいことはよくわかりませんでしたが、もともとのナザレのイエスの流れとは仏教であり、この部分については、七次元よりの使者の0巻の中にも書かれていると思います。

◆ しかし、その流れから始まったカトリック教会やプロテスタント教会などのナザレのイエスの心と正反対に歩んだ西欧のキリスト教社会の中で、キリスト教と仏教の流れを結びつけて、キリスト教と大乗仏教の法華経と結縁させてた人は、ヴィセント・ファン・ゴッホが始めてであるのです。その意味でゴッホは文明の十字路の世界、東西宗教の橋渡しの位置にいるのです。

◆ それはナザレのイエスの死後、1900年以上経過した19世紀に入ってから、始めてキリスト教社会がヴァン・ゴッホによって法華経と結縁したことになるのです。そのような意味でヴィセント・ファン・ゴッホは、キリスト教と仏教に橋を架けた唯一の西欧人であり、そして印象派とは、西欧の仏教と言えるのです。

( そして印象派の画家としてのヴィセント・ファン・ゴッホは、今日の西洋教育の世界観の中に完全に埋没している日本の学校教育の教科書の世界の中でも述べられている世界的な画家であり、特に日本人の場合には、大正時代の白樺派の文学者達の社会運動によって、多くの日本人の意識の中に、『ひまわり』という絵画を描いたゴッホという画家がインプットされたのです。それ故に、完全に西洋教育の中に埋没した私たち日本人であっても、ゴッホの真実の姿が五井野正博士によってあきらかにされて、そしてゴッホを通して仏教の世界に結縁するという道が、今日の学校教育を受けた人々に対しても、博士によって開かれたのです。それはゴッホという乗り物が示されたということなのです。そしてそれは同時に、ナザレのイエスに始まるキリスト教の人々に対しても、ゴッホという乗り物が示されたことになると思います。そのようなことで、私たち日本人は、ヴィセント・ファン・ゴッホの真実の姿を知ることによって、ゴッホという乗り物に乗ることになるのだと思います。)

◆ そのようなことで、ヴァン・ゴッホについて調べてゆくと、ゴッホが牧師の卵であり、ルナンのイエス伝を生涯にわたって愛読して読んでいたということであれば、当然ゴッホが信仰していたナザレのイエスについて、少し掘り下げて見つめる必要性があるとも思えてきます。もちろん、それは一般的なキリスト教会の教義ではありませんが・・・・それは、あくまでもゴッホを知るための一つの側面として、そして隠されたナザレのイエスの真実を知るために・・・

◆ さて上段の本は、これまで何回が取り上げています『オムネク・オネク』の本になりますが、㌻395には、ナザレのイエスが30歳を迎える以前は、チベットやインドに行き、そこで『至高なる神性の法則の秘密』を学んだと述べられています。下記はその引用となります。

『・・・12歳を迎えた頃、イエスは自分の体験を通して学ぶために旅に出ました。秘教を学ぶ彼の旅は、エジプト、チベット、インドにまで及びました。彼はチベット北部のカッパリ修道院の長であるフッビ・クウォンツのもとで3年間、教えを受けました。そこで彼は、至高なる神性の法則の秘密を学び、彼のスピリチャルな名前である「イエス・(ジーザス)」と「キリスト」の名を授かりました。「イエス」はユダヤ人の王という意味でもあり、彼の伝える教えが新しいものであるために付けられた「キリスト」という名は「真理を運ぶ者」という意味です。家族のもとに戻ったイエスは、30歳となっていて、すでに自分の民族に教え始める準備ができていました。』

◆ 以上がその引用となりますが、ナザレのイエスがチベツトやインドを訪れていたという話は、かなり以前から様々な精神世界の本の中でも述べられていて、また実際に日本からチベツトに行って来た僧侶の体験談やチベツトの僧侶から聞いた話として、ナザレのイエスが来ていたという話は断片的に伝えられていることと思われますが、しかし、このようなイエスのチベット・インド訪問については、やはりバチカンや西欧のキリスト教会は認めないようです。



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◆ さて上記書籍は『ユダヤ・キリスト教封印のバチカン文書』ですが、この本の最後には『チベットのヒミス寺院秘蔵のキリスト古文書』が入っているのです。チベットの寺院と言えば、オムネク・オネクが金星から地球に来て始めに地球での生活訓練を3年間に渡って受けた処がチベットの秘密寺院ですが、このナザレのイエスの記録が保管してある寺院もチベツトの寺院なのです。

◆ このキリストの文書は、この本の翻訳者によると、19世紀のロシアの探検家『ニコラス・ノトヴィッチ』がインドやチベットなどを探検した時に現地のラマ僧より、ナザレのイエスが当地を訪れたという古文書の存在を聞き、チベットの僧院でその古文書を見せられて、現地の通訳の助けを借りて翻訳・記録したものであると書かれています。

◆ そしてこの古文書の記録をロシアで発表・公開しょうとしたのですが、ロシアでのキリスト教会の事情を知り弾圧される可能性があるので、1年後にバチカンのローマカトリック教会に伝えた処、教会の敵に餌を投げかけるようなものだと批判されたけれども、その後フランスのジュール・シモン(哲学者・政治家)に相談した処、フランスの学者で『イエス伝』を書いた有名な学者であるエルネスト・ルナンに相談してみたらどうかとなり、このロシア人探検家のノトヴィツチは、ルナン宅を訪れて相談していると言うエピソードがあるのです。

◆ 結局、ノトヴィツチは、ルナンに資料を見せると、この有名なイエス伝を顕した学者に名誉を取られてしまうのを恐れて、その古文書の資料を見せなかったようなのですが、ルナンはその古文書の資料を預からせていただければ、学会で発表するということを伝えていました。

◆ もしノトヴィツチがルナンにこのチベットの僧院に残されていたキリスト古文書を見せていたら、恐らくバチカンは、ただでさえ、ルナンのイエス伝を批判していましたから、このノトヴィッチのチベットでの古文書は、西洋のキリスト教世界に大きな波紋を投げかけたことになっていたかもしれません。

◆ 何故ならナザレのイエスは、インドやチベットで仏教を学んでいた。そして三十歳となって、ユダヤの地に戻って、ユダヤ教律法社会の中で教えを説いたということになり、ナザレのイエスは、仏教徒であったという世界観がキリスト教世界に広がったと思えるからです。

◆ もちろん、この古文書は、嘘であり偽物であると述べている人も数多くいると思うのですが、私がこの古文書を読んで気付いた些細な断片的なことを最後に述べたいと思います。この古文書では、ナザレのイエスがインドのカースト制度の世界で教えを説いている場面があるのです。

◆ 当時は、バラモンの僧侶が社会を支配していて、シュードラ階級を差別していたらしく、シュードラ階級には、教えは説いてはいけないとされていてナザレのイエスは、そのようなカースト階級の差別を無視・否定して教えを説いていたようで、白い僧侶達から狙われることになったと書かれています。㌻297より引用。原文では、ナザレのイエスは『イッサ』と表現されています。

『14歳になった頃、神に祝福されし若きイッサは、シンドゥーを越え、神の愛される国で、アーリア人たちとともに住まれた・・・・ヴィアーサ・クリシュナの遺骨が眠るオルシスの地方にあるジャガナートを訪れた。そこでバラモンの白い僧たちに迎え入れられた。彼らは、イッサにヴェーダを読解し、聖典を解説することを教えた・・・イッサは、ヴァイシャ、シュードラと共に平和に暮らし、彼らに聖なる教えを説いたからである。

 だが、バラモンとクシャトリアは、大いなるパラブラフマンが、内臓と足から創造したこの人々に近づくことを禁じている。と主張した。ヴァイシャは、ウェーダの朗読に耳を傾けることだけしか許されていない。それも祭りの日だけである。またシュードラはウェーダの朗読は聞くことはおろか、見ることさえ許されていない。彼らは、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャに隷属する定めであるからだ。彼らの奴隷の身から解放できるのは死しかない、とパラブラフマンは言われた。

 だが、イッサは彼らの話を聴こうとせず、シュードラのところに行き、バラモンとクシャトリアに対立する説教を始めた。彼は隣人から人としての権利を奪う者たちを激しく非難し、「父なる神」は、子供たちの間にいかなる差別も設けられていない。みな等しく愛されていると語った。イッサは、ウェーダとプラーナの聖なる起源を否定し、人の行動を導くために与えられた法は、ただ一つであると説いた・・・・以下略

 イッサがシュードラに説教をしていることに気付いた、白い僧侶たちと戦士たちは、イッサの殺害を決め、目的を遂げるために使いを派遣して、イッサの探索に当たらせた。だかイッサはみの危険をシュードラに知らされ、夜のうちにジャガナートを抜け、山を越えて、偉大なる仏陀シャカムニの生誕地であるゴタミの国に逃れ、唯一最高のブラフマンを崇める人々の中に住んだ。パーーリ語を完全に習得していたイッサは、スートラのの聖なる巻物を調べ始めた。6年後、イッサー彼は仏陀の聖なる言葉を広めるために選ばれていた。ーは、聖なる巻物を完璧に解説できるようになった。』

◆ 以上が、古キリスト文書の一部分の抜粋ですが、この文章の中で、簡単で些細な表現で当時の状況を物語っているのは、この古文書の中に書かれているアーリア人でバラモン階級である僧侶達を、白い僧侶と表現している処なのです。

◆ 現在のインドでは、アーリア人の白い僧侶はいないと思いますが、ナザレのイエスが生きていた時代にはインドには、白い肌のアーリア人の僧侶達がいて、彼らはウェーダという経典を読んでいたということが書かれています。

◆ 私はこの『白い僧侶』と言う表現から、この古文書は、嘘の伝承ではなく、ナザレのイエスがインドやチベットを訪れたのは、本当のことであると思いました。そしてこの白い僧であるバラモン階級の人々が、イエス在世の時から、カースト制度の支配者であり、当時の社会状況が見えてくるような気がします。

◆ そのようなことで、個人的にはナザレのイエスは、ユダヤ教律法社会の中で教えを広めてゆく以前は、インドやチベットなどの地域を訪れて、当時の白い僧侶達であったバラモン教のカースト制度にも触れ、そして釈迦仏の教えの経典を6年間学んだ後に、再び故郷のユダヤの地に戻って、三十歳より説法を開始したのだと思っています。しかし、その時にどのような仏教の経典を学んだのか、この古文書には示されていませんが、それが小乗仏教であったのだと思います。

◆ そして西洋のキリスト教社会が、ナザレのイエスが小乗仏教を説いて、ユダヤの地で亡くなってから、大乗仏教の法華経に結縁できたのは、それから1900年以上の時間が経過した19世紀に入ってからで、ヴィセント・ファン・ゴッホによる時まで、西洋キリスト教社会は、大乗仏教の法華経に結縁できなかったのです。そしてナザレのイエスの問題を引き継いだのが、印象派の画家ゴッホであったのです。
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水と木の精霊の守り人

Author:水と木の精霊の守り人
 浮世絵の中に描かれている宗教・歴史・信仰・民俗学・古典などに深い関心があり、『精霊の守り人』のファンです。また、浮世絵の影響を受けたフランス印象派やジャポニスムに関心を持っています。
( Impressionnistesとは、正しい翻訳では、印象派と訳すのではなく、フランスの浮世絵師と訳すのが正しい翻訳であるそうです )
特に浮世絵の研究者でもあり、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士のファンの一人です。博士の講演の中で、ジャポニスムとは、日本趣味ではなく正しくは、~イズム(ism)とはその人の生き方・精神を顕わして日本趣味ではなく、日本主義と訳すのが正しい翻訳であるそうです。また内部被曝問題に関心があります。日本GAP・アダムスキーやオムネク・オネクに関心を持っています。

◆ このファンサイトの主旨
 
 このファンサイトは、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士の個人的・非公式非公認ファンサイトです。これまで博士の芸術論講座や講演会に筆者が参加して、個人的に主観的に思ったこと考えたことが書かれています。ですから客観的な公式・公認の情報ではありません。

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