五井野正 博士ファン倶楽部  浮世絵と印象派を通して学ぶ自然世界

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ロシア正教の魂『ノスタルジア』に隠された『偉大な生涯の物語』                      東洋思想・日本主義を実践するナザレのイエスの姿を顕す映画

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( ナザレのイエスが十字架を背負う場面は、最後のほうになります。 )

( 上記は、ヨハネによる福音書を土台として作られた映画『偉大な生涯の物語』です。この映画の中で、ナザレのイエスがピラトによる最終決断によって、十字架刑が決定して、ナザレのイエスが重い十字架を背負って歩くシーンから、ウェルディーのレクイエムの音楽が流されてきます。またその下の画像は、ダビンチがマグダラのマリアを描いたとされるモナリザ。モナリザの背景には、ヨルダン河を中国的な山水の世界で描いたとされる自然の世界が表現されています。またノスタルジアの映画の中で主人公の妻の名前は『マリア』と表現されています。そしてそのマリアは妊娠しているのです。)




 そしてそのシーンの時に使用されるレクイエムと同じ曲が、ノスタルジアの始めのシーン、ロシアの民謡的なメロディーの後半部分により、このウェルディーのレクイエムの曲が挿入されているのです。つまり、ノスタルジアの映画とは、冒頭の始めのシーンの中で、ウェルディーの曲を挿入することによって、その曲を通して、冒頭のシーンの中に、重い十字架を一人背負って歩くナザレのイエスの姿を隠れたシーンとして、その曲を使うことによって描いているのです。

 そしてそのシーンは、最後の場面であるこの映画の主人公が、ロウソクの灯明を持って一人ドミニコの遺志を守り継いで歩き、最後に心臓発作で倒れるシーンの時にも流されて、ゴルチャコフというロシアの芸術家の姿の中に実は、ナザレのイエスを投影させていることが、ウェルディーの曲を使うことによって顕されているのです。そしてその曲は、下記のノスタルジアのブログに顕されていますので一度聴いてみてください。


ノスタルジア
http://www.zaziefilms.com/nostalghia/






( 上記は、ノスタルジアの全編となりますが、プロローグとエピローグのシーンで、ウェルディーのレクイエムが使用されていて、十字架を持って歩くナザレのイエスの姿が、音楽の選曲によって描き込まれています。つまり、一つの映画作品の中に、他の映画作品である『偉大な生涯の物語』のライトモチーフの音楽を挿入することによって、そのモチーフとなった映画のシーンを描き込んでいるのです。この技法は、浮世絵の技法の中にあるものを、映像と音楽を用いて、映画の中で使われているのです。そしてそのことで映像に二重の意味を持たせているのです。そしてそのことに気付いてくると、この作品の中に出てくる主人公が実は、ナザレのイエスの現代版であるということを、内実には示唆しているということがわかってきます。

 それではどうしてタルコフスキーは、このような技法で映画を製作したのかということになりますが、それはタルコフスキーが生きていた時代は、宗教や神の存在を否定する唯物史観に基づく共産主義社会体制下においての映画製作であるという事実を知らなければなりません。映画とは、共産主義プロパガンダの役割を持つわけですからそのような社会体制下にあって、宗教的な映画を撮ることは、弾圧を受けるのです。それ故にこのような技法を取らざるを得なかったのであり、そしてこれは帝政ロシアの時代に、ロシアの農奴社会の解放のために官憲と戦ってシベリアに流刑となった帝政ロシアの貴族階級・デカブリスト達やその魂を受け継ぐロシア雑階級知識人、つまりロシア文学の精神を継承するもの(そのデカブリスト達の魂を受け継ぎ、農奴解放のために戦う若きインテリゲンツァー達)と見なされています。そのようなことでタルコフスキーも西側に亡命せざるを得なくなった・・・

  たとえばそれは、ヴィンセト・ファン・ゴッホが娼婦シーンと婚約していたけれども、当時の西欧のキリスト教倫理社会の中では、牧師の流れを汲む人間が娼婦と結婚するということがオープンになれば、その事実が社会的にハプニングとなるために、絵画の世界の中に、その真実を封印したことと同じ側面を持っていると考えられるからです。共産主義社会体制下の中でロシア正教に深い繋がりのある映画を表現するためには、真実を様々な形で封印して作られているのであり、始めから誰に対してもオープンとなっていないものであり、それはダビンチコードと同じ意味なのです。

 さらに、このノスタルジアの映画に描かれている山水画の情の景の中に一人佇むゴルチャコフの姿も、実はナザレのイエスの姿を顕しており、そのナザレのイエスの処には、犬がいっしよにいるのです。この山水画の世界とは、ナザレのイエスがいる世界を実は示しているのかもしれません。ノスタルジアとは、その世界に戻り回帰することを映像でメッセージとして顕しているのです。それは、この映像が単なるロシアのふる里を表現しているのではなく、ロシアのふる里を通して、ナザレのイエスがいる世界を映像のシンボルを通して発信しているのです。つまり、この山水の映像の意味とは、ナザレのイエスのいるイデアの世界の一断面を切り取って視覚化したものであり、この山水と木造の家の姿とは、この地球の自然世界のイデアの原型であるのかもしれません。)

◆ さて、前回から文章の中で、タルコフスキーは、ノスタルジアの主人公であるゴルチャコフの姿の中に、ナザレのイエスの姿を投影していると述べましたが、それはこの画像で言うと一番上の『ノスタルジア』のポスターの中に顕されている、1本のロウソクの灯明を、その光りが消えないように、オバーで風でロウソクの火が消えてしまうのを守りながら、温泉の端から端まで、ドメニコの魂の法灯を引き継ぐロウソクの灯明が消えないように一人歩いているゴルチャコフの姿が、一番上のノスタルジアのポスターの中には納められています。

◆ ドメニコの魂の法灯とは、『水を汚さない所まで』現代の文明を戻そうとする意志です。そしてその意志が、ロウソクの灯明となって、その意志を引き継ぐことを、ロウソクに火を灯して、その業の実践をしている様子を顕しています。そしてゴルチャコフは、温泉の端から端に渡りきった時に、心臓発作が起きて倒れてしまうのですがその倒れる時にも、そのロウソクの灯が消えないように、片手でロウソクを守ろうとします。


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(上記は、燈明を保つドミニコ。ゴルチャコフは、そのドミニコよりある事を託される。)

 『 どこに生きる? 現実にも生きず、想像にも生きぬのなら。天地と新しい契約を結び、太陽が夜かがやき、8月に雪を降らせるのか? 大は滅び去り、小が存続する。世界は再び一体となるべきだ。ばらばらになりすぎた。自然を見れば分かる事だ。生命は単純なのだ。元初に戻ろう。道をまちがえた所に戻ろう。生命の始まりに!水を汚さぬ所まで!何という世界なんだ。狂人が恥を知れと叫ばねばならぬとは!!』 

 『 健全な人よ。何があなたの健全さなのだ。人類は今崖っぷちを見つめている。転落寸前の崖っぷちを。自由に何の意味があろう。あなた方が我々を正視する心を持たず、我々と共に食べ、共に飲み、共に視る心を持たないなら。健全な人々がこの世を動かし、そして今破局の淵に来たのだ。人よ!聞いてくれ。君の中の水よ! 火よ!灰よ! 灰の中の骨よ! 骨よ! 灰よ! 』 
                        (ノスタルジアにおけるドメニコの言葉より)

◆ そしてその時にある音楽が入るのです。この音楽は、ノスタルジアの始めの冒頭にも使用された音楽のメロディーですが、始めの冒頭でこの曲のメロディーを聞くと、この映画がとても深刻な問題を孕んでいる映画であるとだれも感じるほどに重いメロディーなのです。その音楽とは、ウェルディーの『レクイエム』の冒頭の始めの出だしの処が使われているです。そしてこの曲が使われていることには意味があるのです。

◆ それは、どうしてウェルディーのレクイエムの冒頭の処が使われているのか?その選曲の理由がわからないと、このノスタルジアの映画の始めのシーンの意味が理解できないようになっているのです。始めのシーンとは、下から2番目の画像です。その中央には、森に囲まれた湖水が見えます。 

◆ 中央には一本の電信柱がありますが、人々はこの1本の電信柱の処に集まってくるのです。そしてこの1本の電信柱を見つめているシーンが冒頭にあるのです。そしてその左側遠方には白馬がいます。いったいこのシーンは何を顕していて、どうして人々は、一本の電信柱の処に集まってくるのでしょうか。実はこの映画には、浮世絵の『見立ての原理』と同じ理屈が使用されています。それは映画の世界ですので、『見立て絵』ではなく、『見立て映画』の手法がはめ込まれているのです。そしてその『見立て映画』の謎を解く鍵が、ウェルディーのレクイエムの選曲理由の中にあるのです。

◆ 実はこのウェルディーのレクイエムの冒頭の曲のメロディーは、下段に示されているヨハネによる福音書を土台にして作られたイエス伝である『偉大な生涯の物語』の中で、ナザレのイエスがピラトの裁判の判決を受けて十字架刑となり、画像中央に見られるように、ゴルゴダの丘を一人重い十字架を背負って歩いている時に流されていた曲が、実はウェルディーのレクイエムの冒頭のメロディーであったのです。

http://www.zaziefilms.com/nostalghia/

http://www.youtube.com/watch?v=2qVpAcHyjYc&feature=related

◆ つまり、このウェルディーのレクイエムの冒頭のメロディーを選曲すると言うことは、実はゴルゴダの丘を一人十字架を背負って歩くナザレのイエスの姿が、この曲に投影されていて、この曲をある映像の場面に選曲するということは、その場面の中に、実はナザレのイエスの姿をその場面の中に吹き込んで投影させているのです。それゆえに、始めの冒頭の場面の中に、実はその選曲を通して、もう一つの場面である十字架を一人は運んでいるナザレのイエスの姿が音楽の選曲によって、描き込まれているのです。

◆ その証拠に、どうしてノスタルジアのプロローグの場面で、電信柱に人々が集まってきて、その1本の電信柱を見つめているのかというと、この1本の電信柱とは、実はナザレのイエスがかけられている十字架の見立てとなっており、それ故に人々が集まってきているということを意味しているのです。そしてそれが、ウェルディーのレクイエムを選曲している理由であり、タルコフスキーは、映像と音楽によって、始めのプロローグとエピローグの灯明を守ろうとするゴルチャコフの姿の映像の中に、十字架を背負って一人歩くナザレのイエスの姿と魂を描き込んでいるのです。そしてこのようなウェルディーの音楽を通して、実は映像に二重の意味を持たせているのです。

◆ それではその二重性の持つ意味とは何かということになりますが、それはドメニコの言葉の中にあるように『水を汚さない処まで、この文明を戻すということ。』この法灯の意志を実践する人とは、西洋社会の中では、ナザレのイエスのような生き方をしてしまうことになり、ある意味でこのノスタルジアの映画の中には、東洋思想を実践するキリスト像を顕しているということがわかってきます。そしてそのような像であるが故に、見立ての映画の手法をとって、直接それがわからないようにされていると推測することができると思います。

◆ でもこの『東洋思想を実践するキリスト』って、何か思い出しませんか? 西洋のキリスト教文明の世界の中で東洋思想を実践した人とは、ヴィセント・ファン・ゴッホもそのような一人ではなかったのではないでしょうか。そしてゴッホも自らの描いた絵画の中に、自らの気持ちを封印したのです。何故ならそれは当時のキリスト教倫理の社会体制の中では、娼婦と結婚することは許されてなかったからです。

◆ このノスタルジアという映画も実は同じような宗教的側面があるのです。キリストの業とは、水を汚さない処まで、或いは私たちが間違った処まで、この文明社会を東洋思想の実践によって戻そうとする人であるということをこの映画の中には、その意味が吹き込まれているのです。そしてその法灯を引き受けてゆく人とは、ナザレのイエスのような生き方となってしまうということを暗示しているのです。ですから、この映画は、ノスタルジアの中に、東洋思想を実践するキリスト像を表現しているで、映像を難解にしているのです。

◆ 私たち日本人は、日本と言う国の文化の中で生活をしていますが、日本では、このような東洋思想的で哲学的な映画は作ることができないと思います。でもロシアという国の中では、失われてしまった日本の中の東洋文化を研究している人々がいて、そのような人々がこのような映画を作っているのかなと思われてなりません。そしてこのような映画は、現在の日本人の感覚では理解できないのではないと思います。日本の黒沢明監督は、タルコフスキーと親交があった最後の日本人の芸術家のようです。

◆  追記

 このようなことは、信じられないことかもしれませんが、レオナルド・ダビンチの『モナ・リザ』の絵画が、その背景に山水画的な東洋的世界観とマクダラのマリアというキリスト教的世界観が、一枚の絵の中に融合されて顕されているように、ロシア的世界とは、前回もロシア的人間という処で述べましたが、実はこのレオナルド・ダビンチのモナ・リザの世界に近いのです。

 それは、東洋的な山水画の自然的世界と共存しているキリスト教世界を意味します。そしてその場合のキリスト教とは、ローマ・カトリック教会でもプロテスタント教会でもなく、それは本来のキリスト教の流れである東方正教会であるロシア正教の世界を意味します。このノスタルジアの映画の中では、この二つの要素が融合されているのです。それは西洋社会の中で、その社会を東洋的世界観に戻そうとするキリスト教なのです。それは自然世界と対立するキリスト教ではないのです。

 そしてそのような融合された視点がなければ、始めの山水画の世界の中に、十字架を背負うナザレのイエスの姿をウェルディーのレクイエムを通して音楽で描くという発想が生まれてこないのであり、もしその自然への回帰を願うノスタルジアの中に、十字架を背負うナザレのイエスを表現する意図は何かということを意味するのです。それがロシア正教の精神であると解釈するのであれば、日本人にこの意味が理解できるでしょうか。


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水と木の精霊の守り人

Author:水と木の精霊の守り人
 浮世絵の中に描かれている宗教・歴史・信仰・民俗学・古典などに深い関心があり、『精霊の守り人』のファンです。また、浮世絵の影響を受けたフランス印象派やジャポニスムに関心を持っています。
( Impressionnistesとは、正しい翻訳では、印象派と訳すのではなく、フランスの浮世絵師と訳すのが正しい翻訳であるそうです )
特に浮世絵の研究者でもあり、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士のファンの一人です。博士の講演の中で、ジャポニスムとは、日本趣味ではなく正しくは、~イズム(ism)とはその人の生き方・精神を顕わして日本趣味ではなく、日本主義と訳すのが正しい翻訳であるそうです。また内部被曝問題に関心があります。日本GAP・アダムスキーやオムネク・オネクに関心を持っています。

◆ このファンサイトの主旨
 
 このファンサイトは、ロシア国立芸術アカデミー名誉会員の五井野正博士の個人的・非公式非公認ファンサイトです。これまで博士の芸術論講座や講演会に筆者が参加して、個人的に主観的に思ったこと考えたことが書かれています。ですから客観的な公式・公認の情報ではありません。

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