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2022.12/31 [Sat]
◆緊急速報◆ 釈迦・天台・伝教・日蓮と受け継がれた己心の悟りを終に歴史の上に登場させた書◆五井野正博士『事の一念三千論』掲載される!

( 転載許可済 )
◆ 上記は、『釈迦・天台・伝教・日蓮と受け継がれた己心の悟りを終に歴史の上に登場させた書』である五井野正博士『事の一念三千論』が始めて、開示された雑誌であるウイッピー文明・創刊号の表紙です。
◆ この論文は仏教の歴史に残る、これまで釈迦入滅後、私たち現代人が、何千年の間、けして知ることも理解することも、何もできなかった理論の真実が掲載されています。 また五井野正博士の一念三千の理論は、1973年2月に創価学会会長・池田大作氏に提出されたものであり、創価学会会長・池田大作氏によって、自分の理論とされ、700万世帯の学会人の前で、博士の理論を使って、自分の理論のよう説明して、池田本仏論を広めて、この論文を説かれた本当の本物の方の存在を人々の前から消し去ってしまったのです。
◆ すでにインターネット上での論文の掲載は博士の御崩御に伴って終了されておりますが、私たち日本人は、上記創価学会・池田大作氏がこの世界で起こした大きな事件・大犯罪によって、戦後、本物の方によって、日本人が経済的に豊かになり、多くの日本人が、平等に経済的に豊かになって、その上で、仏法の説法を聞くための生活の土台の条件が整えられて、正しく仏法を説く人と結縁して多くの日本人がその説法を聞くことができるようにとされてきたのに、創価学会・池田大作氏の大犯罪によって私たち日本人はそのチャンスを全て失しなってしまったのです。
◆ 私たちはこの事実を忘れることなく深く刻印するために、すでに一念三千論の掲載・閲覧は終了しておりますが、この創刊号の雑誌の表紙を継続して掲載してゆきたいと思います。 また創刊号については、下記五井野正博士著書㌻110~116に詳しく記述されています。
ムー帝国の真実・金星人の歴史・旧太陽・木星(弥勒神)の謎 一念三千論で解く宇宙生命の秘密
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2022.12/31 [Sat]
『一念三千論で解く宇宙生命の秘密』 ロシアやアルメニアで【日本の神】と呼ばれ・・・ 『天才・五井野正博士だけが知っているこの世の重大な真実 』

◆ 知と科学と芸術の巨人・五井野正博士、ヒカルランドより上記書籍を刊行。書籍の詳しい内容については下記をごらんください。また以下の文章は、個人的な感想です。
◆ 私たち日本人は、広島・長崎に原爆を受け、福島原発事故を通して、他のどんな国の人々よりも、核と放射線被ばくの問題について深い問いかけを持っていると思われています。また、キューバ危機や米ソによる核戦争の問題から旧ソ連邦のチェルノブイリ原発事故の問題ひいては、朝鮮半島危機と今日の北朝鮮による核開発の問題は、現在の日本の社会に大きな影響を与え、現在の私たち日本人にとっても、昨年の米朝による核戦争の危機は、いつ起きてもおかしくない状況にありました。またさらには今後、米中による核戦争の危機も残されています。
◆ 私たちは、このような戦後の核の歴史の中にあって、核戦争や原発事故による放射線被爆の問題がどうしてこの世界に起きてくるのか、核の問題に対する『原因』とは、いったいどこから来ているのか、そして核の問題に対する『原因と結果』のカルマの来歴はどこから来ているのか、私たち日本人は、この核に対する根源的な『原因と結果』に対する問題について、今立ち止まって深く問いかける必要性があると思われてなりません。
◆ いったいこの世界の核の根源的なカルマは、どこから来歴してきているのかと・・・・そしてこの問いかけに対する解答が、実はこの一冊の本の中にその宇宙的規模の、或いは太陽系の大きな根源的なカルマの世界が示されているのです。今後、私たち日本人がどのような運命の方向に向かってゆくのか、わかりませんが、この本の中には、核の根源的な問題に対する『原因と結果』とその因縁が示されているのです。私たち日本人は、核戦争と放射線被ばくそして原発事故の問題について、どれだけ問題意識を持ち、核の本質の問題に対して向き合うことができるのでしょうか。
ムー帝国の真実・金星人の歴史・旧太陽・木星(弥勒神)の謎 一念三千論で解く宇宙生命の秘密

◆ 上記、知と科学と芸術の巨人・五井野正博士・新刊がヒカルランドより刊行下記をごらんください。
天才五井野正博士だけが知っているこの世の重大な真実
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2022.12/31 [Sat]
◆ 緊急速報 ◆ 五井野正博士『七次元よりの使者・第0巻』連載開始


( 上記動画は1978年NHK『若い広場』で放送されたもの、テーマは『持続する心』 また、レコードジャケットは、八葉の心蓮華が描き込まれている七次元よりの使者のレコードジャケットです。)
◆ Wippiiより、五井野正博士の名著『七次元よりの使者・第0巻』の連載が開始されたようです。
◆ この連載は、随時0巻から一巻、二巻、三巻の連載が予定されているようで、これまで七次元よりの使者・0巻は、なかなか手に入れることができなくなっていた貴重な本のために読むことができなかった多くのファンの人々にとって、大変な朗報であると思います。
◆ そのようなことで、取りあえず、下記に掲載しましたので、より多くの人々に読んでいただき、これまで読むことができなかった人々のために、広めていただければと思います。
◆ 緊急速報 五井野正博士『七次元よりの使者・第0巻』の連載始まる。◆
( 下記をクリックしてください。閲覧できます。)
五井野正博士『七次元よりの使者・第0巻』
◆ 現在下記まで公開されています。
七次元よりの使者第0巻 第一章①
七次元よりの使者第0巻 第一章②
七次元よりの使者第0巻 第二章①
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2022.12/31 [Sat]
五井野正博士・情報 『五井野正オフィシャルサイト』HPより

◆上記ロシア正教会の映像は、至聖三者聖セルギイ大修道院と聖ニコライ教会におけるアレクシー絵画贈呈式。至聖三者聖セルギイ大修道院は、ロシアにおける世界遺産として登録されている高名な寺院である。
◆ ロシア政教関係のHPより
http://www.bogoyavlenskoe.ru/news_details/news_details5019


( 有名なアンドレイ・ルブリョフの上記
作品である三位一体のイコンはもとも
と、絵画贈呈式が行われた至聖三者
聖セルギイ大修道院に安置されていた。
現在は、トレチャコフ美術館 に安置され
ている。)
ロシア正政の真髄( 枯れてしまった
日本の木を再生する人の到来 )
『光は東方より』に敵対する日本の反キリストである富と権力を追求する反社会的宗教団体・創価学会
◆五井野正博士についての情報について下記HPに詳しく掲載されています。
五井野正オフィシャルサイト
◆下記は、一般社団法人・人権擁護安全保障連盟のHPとなります。
一般社団法人・人権擁護安全保障連盟
2022.12/30 [Fri]
ブログの紹介 『五井野正オフィシャルサイト』 『五井野正の正体と称して嘘の捏造記事を書くサーティンキューの正体』

◆ 下記ブログをご紹介いたします。現在、サーティンキューなる悪質なブログが、五井野正博士に対する中傷誹謗を繰り返し続けています。サーティンキューなる人物がいったいどのような人物であって、そのバックグランドに何が隠されているのか、その詳しい分析がなされています。ぜひ閲覧購読してください。私たちは、何が真実で何が真実ではないのか、その判断をするために、このような真実の情報に触れて自分自身で判断してゆく必要性があると思われてなりません。
◆ 五井野正オフィシャルサイト
◆ 五井野正の正体と称して嘘の捏造記事を書くサーティンキューの正体
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- [ロシア文学・ドストエフスキー原作・悪霊よりlサーティン・キューの分析]
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《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。